心は揺れて、右右左。実験結果。Q.E.D.?

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朝起きて、窓を開け、床に置いたサーキュレーターのスイッチを入れる。

マンションが大通りに面しているため、開けた窓の外からはしきりに車が通りすぎる音が聞こえてくる。

少し曇り空の今日、なぜだか電気をつける気にもならず、少しの薄暗さの中、私はベットに寝そべりながら、いま、こうしてブログを書いている。

様々な生活音に囲まれながら、できるだけ深く、静かに、自分の中に潜っていく。
車の音も、サーキュレーターの音もなぜだか不思議と気にならない。むしろ、心の方はとっても穏やかで静かなので、私は周囲の雑音に対しては反対に、そのままできるだけ騒がしいままでいてくれと。そんなことを願ったりする。

横断歩道が青になった音が聞こえる。

そんな程よい雑音の中、自分しかいない環境に身を置いて、私は一度試してみたいことがあった。





「自分の心の中を覗いてみたい。」


頭の中を空っぽにして、自分の中に深く深く、潜ってみたい。いつも仕事中、頭の中に途切れ途切れ浮かんでは消えてゆく思考の破片を集めて一枚の紙に収めてみたい。思考と心の両方を上手にすくってみたい。自分が普段何を考えているのか、文字として見てみたい。できるだけ、可能な限り鮮明に。


そんな「欲」が私の中に生まれてきたのでそれこそ考えるよりも先に、こうやって思い浮かぶと同時にキーボードを打ってみたりする。

他人の思考が気になって仕方がないわたしの欲望の正体が結局のところ何かといえば、自分の思考を表にだしては他人と照らし合わせてみたい。という欲求なのだ。やはり人間欲がないと動けないようで。今の私はそんな「欲」で動いている。これもまた私の中に存在する一種の好奇心なのだ。


そんな自分の欲を満たすための実験をするには、今みたいな状態が一番良い。無音ではなく少し雑音交じりの環境の中、ほんの少しだけ自分と環境の区別がつかなくなるような、意識が少し混沌としている状態。

どこからともなく、鼻歌とピアノの音が聞こえてくる。


今の状況とは反対に、静かで、それこそあまりにもしんと静まり返った環境だとしたら、きっと今度は自分の心の方が落ちつかず、きっといても立ってもいられなくなるだろう。きっとそわそわし始めて、あれやこれやと動きまわって、自分の脳への刺激欲しさに、本を開いては閉じてみたり、パソコンを開いては音楽を流してみたり、、。そうなってくると、影響されやすいわたしの脳は、本であれば文字に、音楽であれば歌詞へと引っ張られ、「自分の心を見る」。すなわち「自分の言葉で自分を表現する」というようなことなど、全く持ってできそうにない。

言葉の無い、雑音。自然の中の、音。


それが何よりも一番私の中の「自然な心」を引き出してくれるような気がする。


今こうしてキーボードを打っている間も、別に何かを考えているわけではない。自分一人だけになって、ずれてくれるな、ずれてくれるな。と慎重になりながら、自分の中に深く潜っては、浮き上がらないように、おそらく、きっとここが底だろう。という場所で一人静かに呼吸をするだけなのだ。


深く、吸っては、吐いて、吐くと同時に、心の中のもやもやとした形にならないものたちが、私の頭の中から、それっぽい単語や言葉を拾ってきてはあてはめて、こうして、目の前に映し出すのだ。


もちろん、とりあえず思いつくままに文字を連ね、何度も自分で読み返しては、訂正し、もっと適切な表現はないか。本当に、自分はそう感じているのか。と何度も何度も自問自答しながら読み進めてはページをめくって、再度また、前のページに引き返しては一言一句確かめるように、心で感じる感情と言葉が絶対に切り離れてしまわないようにと、自分の中で細心の注意を払いながら読みやすいように修正し、何度も微調整を繰り返しながら書き進めている。



以前までの私は自分の中で感じたことや思ったことを、自分だけが分かっていればいい。自分が分かっていれば大丈夫。とそんな風に思っていたのだが、どうやら、それだけでは上手くいかないらしい。


自分の感じたことを表に形として伝える力がなければ、そんなものは分かってない。に等しいのだ。表現できなければ、それは存在しない。に等しいのだ。ということが最近になってようやく自分の中で腹落ちした。


確かに自分の中には存在するはずのこの絶対的な「感覚」みたいなものを上手く表現できないだけで、なかったことにされる。なんて、なんだか非常に悔しくて、そんなのおかしい、なぜ、分かってくれないのだ。と他人に対して悔しさに似た何かをぶつけてみたり、理解されないならしょうがない。とあきらめて、ハイハイ、そうですね、と表面的に相手に寄り添ったつもりになって、きっとあなたには言っても分からないと、内側では相手をどこか見下しながら心を閉ざしてみたりしたこともあったのだけれど、、、本当に、そうだろうか、、??


「分かっている」のに伝えられないのであれば、それはやっぱり分かってないのではないか?理解しきれていないのではないか?たとえ分かっていたとして、自分で表現する努力を怠ってなお、自分の存在を他人に認めてもらおうなんて、非常に甘えた話なのではないか。と。


「他人に伝わらなければ意味がない。」


ああ、そうか、私は伝える力を身につけなければだめなのだと、自分の中に他人とは違う。と感じる何かがあるのならば、それ相応にふさわしい表現力も同時に磨かなければ、一生苦しいままだ。と。そもそも私の中の根底に潜んでいる「他人と気持ちを共有したい。」という欲望を叶えることなど到底不可能なのだ。と、そんなことにようやく気が付いて、今までは自分だけが分かっていればいい。と、自己満足で終わっていた私の欲望はついに自分の外へと飛び出し、私のもとから離れては、一人、何かを探し求めるように、自己だけでは満足しきれなくなった、私の中の何かが、さらなる欲望を求めて動き出し始める。

そんな私の内なる存在に気がついて、暗闇の中一人、本能の赴くまま、内側にいる小さな私にハンドルを握らせてはブログという媒体を通して好き勝手こうしておしゃべりさせてみたりする。


あなたがあなたを伝えるために、

あなたの存在を相手に認めさせるために、

あなたは自分の武器を持たなくてはならない。



それがきっと言葉なのだ。と。


あなたが受け取った何かを、感じた何かを伝える力を持たずして、あなたはそれではダメなのだ。と。あなたはそんなところにいてはいけないと。



どこからともなく、そんな声が聞こえてきたりする。



私は今まで、自分がどうやってブログを書いているか分からなかった。いったいどういう仕組みでそういう文章になるのか、
「気がついたら、そうなってた。」が正直正しい。いや、実際そんなことはあり得ないのだけれど、「感覚」としてはそんな感じなのだ。もう一度同じものを書こうと思ってもたぶんもう二度と書けないだろうし、、書こうと思って書いた時にはもう、この何とも言えぬ心地よさは味わえない。むしろ、書こうと思えば思うほど、なぜだか非常に悲しくなってきて、やりたくない、やめてよ、私に命令しないでよ。と、そうじゃないよ。そうじゃないでしょ?分かってるでしょ?あなたが一番よく分かってるはずだ。と。心の底に潜む私に「違うよ。」と強気な口調で命令されるのだ。




外部から感じた情報や刺激を自分の内側だけを経由させてそのまま表に出してみる。



そもそも世の中にあふれている本はどうやって書かれているのだろう、、。いったい書いた本人にはどんな風に見えているのだろう。いったいどこからそういった文章が生まれてくるのだろう。パズルのように組み合わせているのだろうか、順序に沿って解答用紙の空白を埋めるように、文章を書く方法らしき何かが存在するのだろうかーーー。

そんな疑問が浮かんでは、どうしたらわたしも書けるようになるのだろうか。とそんな疑問を持った私をほんの少しだけ、納得させるような解答らしき何かが今、見つかったような気がする。


自由に好き勝手書かせている私のこの文章自体がもう私の心そのものなのだ。

心が冷静でなければ、文章が荒れるのも納得がいく。感情を込めた文章がなぜ人に読まれるのかも納得がいく。

目があって離れない文章というのは、パズルのようにはできていないのだ。一文字目から最後の句読点まで、そこにあるのは人の心なのだ。一秒変われば感情が変わるように、小さな揺れから大きな揺れをすべて文字に憑依させ、流れるようにあなたを心ごと言葉の裏側へと引きずり込んでゆくのだ。読み始めたら最後、文字にあなたのこころの動きがぴったりとくっついて離れないのだ。

あることないこと、原因や理由を知りたがる人の心理が、「答えを知りたい」という人の好奇心をかき立て、物語の結末を待つ子供の様にあなたの心ごと巻き込んでは、こうして文章を読ませるのだ。


私が知ってる文字と音の種類は今現在、日本語と50音しか持ち合わせていないため、いまこうして目の前に現れてくる文字と、脳内で再生される音が日本語であり、50の音の組み合わせであるだけで、私が英語を学び、英単語を手に入れ、アルファベットの音を正しく習得することができればおそらく、自然に目の前に表示される文字は英語に切り替わるのではないか。と。その時はきっと脳内で再生される音も50音ではないはずだ。


すなわち文字自体は単なる「記号」なんだと。


試しに少し適当にキーボードを打ってみる。



「jdgkblsgは」

↑文字単体としてはそれぞれ読めても、ここに感情は含まれていない。


「おはよう」

↑なぜ、読めるのだろう、景色が浮かぶのだろう、声が聞こえるのだろう。?



生まれてずっと赤ちゃんの頃から、「おはよう」という言葉と音が、心の中に存在している おはよう。という感情とともに常に存在し続けた結果なのだ。



英語だろうと、日本語だろうと、
人間である以上、きっと、こころの中の大半の「感情」というやつは、個人によって幅さえあれど、人が人である以上やはりみんな同じなのだ。その感じる心の表面に、それこそ、洋服の様に言葉を着せてやるだけなのだ。



強く見せたければ、鎧を着せてやればいい。相手を威嚇したければ、鋭く、棘でもつけといたらいい。嬉しければ、明るい色で。悲しければ、染まってしまわぬように、自分のお気に入りの服をクローゼットから取り出して着てみたらいい。


そんなふうに、感情に合わせて言葉を選ぶこともできるし、反対に、選んだ言葉によって感情が影響されることだってあるのだ。

だから思考であれ、文字であれ、言葉であれ、放った言葉は確実に自分になるのだ。











物質的な何かを手に入れた時の嬉しさなんかよりも、こうして自分の心と向き合って、感じる心や浮かんでくる思考に目を向けて、新しいことを発見しては見える世界が事あるごとにくるくると変化してゆく。感情が上下しながらも、それでいて冷静な自分でいられる。安心感に包まれるような、この何とも言えぬ気持ちの方が何倍も楽しかったりする。こんな気持ちを一生味わっていたい気もする。何もなくていいはずないのに、何もなくても楽しい。私は、もしかしたらとんでもなくふざけてるのかもしれない、世の中の本当のこと。を私は知らないだけなのかもしれない。魔法のような、偽りの楽しさの中にいるのは、もしかしたらわたしの方なのかもしれない。だけど今の私にとっては、これが本当なのだ。世の中に存在する大多数が「答え」と信じる何かを追い求めて、私の中から生まれてくるこの感情の外に自分自身が投げ出されてしまう方が私はなんだかずっと怖い気がするのだ。


なぜ、本が書けるのか、


なぜ、「わかる」のか、

なぜ、顔も名前も知らない人の言葉が刺さることがあるのか、



なぜ、今まで流し読んでたはずの一文に目を奪われることがあるのか、








なぜ、文字が人を動かすのか。









それはやはり、自分の思考と心がその「瞬間」目の前の言葉に反応しているのだ。こころに引っかかった言葉が、今のあなたの居場所を教えてくれているのだ。




本を読んだつもりになって忘れてしまうのも、言葉を自分の中で感情としてとらえられていないから起きるのだ。

言葉と感情を同時につかまえて、思考と心を同時にすくうことができて初めて、私は私を自分。として表現することができるのだ。



毎日意味もなく同じことを考え続けることがとてももったいなく感じる。

平日の頭の中の考え事は毎日変わらず。かといって、休日の頭の中が変わるわけでもなく。「(明日は月曜か。次の休みまで、どうやって切り抜けよう。。。。)」そんな毎日に、果たして意味はあるのだろうか、、。切り抜けてはいけないのだ。向き合わなければならないのだ。思考することを放棄して、なかったことにしたら、本当に何にもなくなってしまう。

進んでいるようで進んでいなくて、小さかった子供が大きくなって初めて、時間の流れを感じたりする。変わっているのは環境だけで、自分は1年前のままで。そんな1年を繰り返した10年先の自分は、今と同じなのではないか。

昨日の自分と今日の自分は違うはずなのに、何なら、一秒前の自分と、今の自分だって、もう、ほら、別人なのに。


毎日揺れ動いて、変化してゆく。本当は、こんなにも、繊細で、感情的な生き物なのに。

なぜ、今まで気がつかなかったのだろう。




私の頭の中も随分変わってきたように思う、もともとそういう考えを持っていたのに自分で気がついていなかっただけか、それとも、この一年で様々なものに影響され、感情と思考に幅が生まれた結果なのか。いずれにせよ、頭の中を空っぽにしないことにはやっぱり新しい考えは生まれてこないので、こうやって吐き出さないことには、前に進めないのだ。前に進んで景色が変わっていくことがこんなにも楽しいとは思わなかった。こうして自由に話せることがこんなにも楽しいとは思わなかった。こうしてこの瞬間を文字として閉じ込めて、読み返すたびに、その文字が生み出された瞬間を思い出しては、私はこれから先、何度も感動するのだろうか。

それとも、あまりの自分の幼さに目を覆いたくなるような恥ずかしさに悶えたりするのだろうか、。でも、どちらでもいい。とそんなことを本気で思う。

気がついたら私は一体どこにいるのだろうか、もしかしたらどこにもいないかもしれない。

なんの保証もできない。なんの約束もできない。明日になったら、もしかしたら全部なくなってるかもしれない。こんなこと書いた数分後に地震が起きて、すべてがなくなって、自分の心の中を覗いてみたい。なんてあほみたいなことを考えて、こうしてとりとめもないことを書き綴ったこの数時間に、なんの意味を与えることもできぬ間に、私はふと、死んでしまうかもしれない。


だから、私は、自分が自分として生きていけるうちに、もっといろんな人と出会いたいし、いろんな景色を見たい、いろんな体験をしたい。もっともっと喜びたい。もっともっと感動したい。そのうちどこかで嬉しくて泣いてみたい。

そんな自分の心に今気がついて、いまも少し泣きそうだ。

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