本当に伝えたいことほど、直接言わないほうが言い。
むしろ直接言わないでほしい。とさえ思う。
日々かわされる会話の中で、ふとした違和感に気がついて、
「ああそっか。」相手が放った言葉の本当の意味に気がついてにやり。
本当のことはやっぱり分からない。けれど、なんとなく。分かる。本当に、なんとなく。でいい。それで十分。
むしろ私の考えさえも、100%合致する言葉が見つかることの方が非常に珍しいことなのだから、
「ニュアンス」で読み取っていただいた方がありがたいかもしれない。
わがままな話ですけど。
余計なことを言わない。そんなことを大切にしている私の頭の中は「超熟食パン」でできているのかもしれない。
(何言ってるの?と思った方は、もしかしたら右利きかもしれないですね。こんにちは。)
ブログを始めて学んだことは、どこかから拾ってきた言葉やそっくりそのまま、何かをまねた言葉よりも、自分が「伝えたいな~」と思って発信した時の言葉のほうが、人の心に響くということで。
実際だれに届かなくても、自分で分かってたら、それでいいわけで。
「結果はおまけ」それでもいいけど、実際はそんなこと言ってられないよな~人生舐めんな、コノヤローって感じなんだろうけど、どうも私の性には合わないらしい。
自己満足で初めたブログに助けられたのは結局、自分自身だったようで。。。
こうやって、ブログを通してする要するに「おしゃべり。」が、私はとんでもなく楽しい。らしい。笑
もともと話すことは好きだから、割とあれやこれやと自分勝手に話すタイプだったんだけど、どうも、大人数での会話は苦手みたい、、、。3人以上になったとたんなんだか急に話せなくなる。大人数になったら聞き役に回って、もし、気が合う人が近くにいたら、ずっとその人と話してる。
だから、私は、一対一の会話のほうが好き。
だから、私は、ブログが好きなのだ。
、、、、。
おお、なんだか、とんでもなくすっきりしたわ。これこそ、すとん。
まさに、「すとん」こういった類の100%の一致は、とんでもなく心地がいい。
自分でびっくり。思わずポツリ。
「ああ、わたし。話すこと好きだなぁ。」
、、、。
そうなのよ、そう。
別に内容が何であれ、もう、最終的には「うん」と「うん」でいいと思うのよね。
分かった。分かってるよ。大丈夫。
目と目だけで会話する。OK任せた。ついてきて。そんな感じ。(どんなや)笑
だから、私は人と会話してて「ムッ」っとしたとき。相手の目をぐっと見る。余計なことは絶対言わない(超熟食パン)。し、絶対に逸らしてなんかやらないんだから。(あっかんべ。)仕事中だったら、その時私がしている作業から一切音は出さない。相手がこらえきれずに、ふっと目をそらした瞬間、
にっこり笑顔で(ざまあみろ。)
こころの底でそう思う。(あー性格悪いな私。)
(そんなことを結局のところ楽しんでる私はやっぱり性格悪いのかもしれないなあ。ごめんなさい。)
反省しよう。(する気ある?)
最近周りを見渡して、よく思うこと。
みんなどこか信用してない。
常に顔色伺って、取り繕うのがすごくうまい。
(みんな一体誰の人生生きてるんだろう。)
みんながみんなそんなだから、結局だれも信用できない。
言葉の先に、ふと見える、表情に「ああ、やっぱり。」こころがぐちゃぐちゃ、もう、いいや。
分かってない。
けれど、、私も結局「そう」なのだと思う。
(、、、、だって、自分が他人にそうしてるから。)
「あの人。」の考えが信じられないとき、本当に信じれれないのは「自分のこと」なのかもしれない。
だから、人を疑ってる自分に気がついた時、、、、。
「ああ。かなしい。」
もう、それしか出てこない。
この気持ちにピッタリと合う言葉をまだ私は見つけられていない。
だから、やっぱり、説明できない。
ただ、黙るしかない。
あーあ。しんどい。
疲れた、しんどい、ああだこうだといって言っている人を横目に、(あ、じぶんのことか。
もう一人の自分がいう。
(みんなそんなところで絡まってないで、こっちに来たらいいのに。)
でも、私(どっちのわたしかはやっぱり分からない。)は意地悪だから、絶対絶対、教えてあげない。(本日二回目。あっかんべ。)
っていうか、教えてあげたところで、たぶん分からない。
分かり合えないことのほうが悲しくて、結局傷つくのは私の方。
だから、絶対教えない。
そっちのほうが「正しい」のかもしれない。
まあ、正しいも間違ってるも、そもそも、ないのだけれど。
一周、二周、三周してようやく(いやもっとか?)、すべて同じ答えにたどりついた時、私の「直観」は「確信」に変わる。
そんなこんなで(どんな?)思いつくのはやっぱりどうでもいい話。
小さいころ、机に向かうことが嫌いで、畳の上やランドセルの上で宿題をしていた。
だからわたしの提出したプリントには畳の「跡」がくっきり。下敷きなんてもちろん敷かないので、、「あっ。」筆圧に負けたプリントには穴だって開いた。
「まあ。いっか。(別に読めるしね。)」
「(先生ごめんね、ちょっとだけ読みにくいかも。)」
、、、、。
うーん、やっぱり適当だ。
こんなに適当だったのに、なんにも言わずに好き勝手させてくれた両親には感謝しかない。
あともう一つ。
小学1年生の入学祝いで買ってもらった、「アフロ犬」がデザインされた学習机は結局6年間「荷物置き場」として使われていた。机として使ったことなんてあったかしら?という具合なので、当の本人(本机)もきっと3年目ぐらいで「あれ、俺ってもしかして、荷物置き場なんじゃね、、、??」ってたぶん勘違いし始めてたと思う。
なんてったって、卒業するころには上に積まれた好きな漫画や小説たちがすっかり馴染んでいたからね。
もしかしたら、彼は今も実家で「荷物置き場」として頑張ってるのかもしれないなぁ、、、。
(まあ、そんなことを話したら、間違いなく何言ってんのコイツ?ってなるのが分かるから言わないけどね。)
そんな私は今、床に座って、たまに寝っ転がりながら、カフェオレ飲みつつキーボードを打っている。ちゃんとLOWYAのダイニングテーブルあるのにね。(笑)でも、どうやら、この体勢のほうが「本音」とやらはでてきやすいらしい。
相手に対する自己開示。それも一種の「信頼」の形なのかもしれない。
はっきりいって、努力は嫌いで、流れるプールに流されているときの自分が好きで、無駄な力を抜いて、なんににも抵抗せずに、すーっと。静かに流される。別になんにも考えなくていい。頭の中が空っぽだって、私の「こころ」がいつも教えてくれる。
ああ、ちがうよ、そっちじゃないよ、帰っておいで、こっちにおいで。
ひらめきの波という名の流れるプールに流されながら、、自分の意識さえしっかりと持っていれば、ちゃーんと本来の自分が「いるべき場所」にいる。そして、不思議なことに、その選択の先に待っている「しんどい。」や「大変。」という言葉は自然と「楽しい」に置き換えられる。毎日の生活の中で、自分にとって本当に必要なものを見極めて、選ぶものはズボンのポッケに入る量だけ。(何よりも大切なのは、決してポケットからはみ出してはいけない。ということ。)
わたしはただ必要な時に必要な数だけの、「正しい判断」を下せばいい。
私の役目は本当にそれだけ。
本当に、そうなのだ。(体感ベースね。)
これは気持ちが沈んでいるときも同じで、ああ、わたし、いま、沈んでるんだな。悲しいんだな。落ち込んでるんだな。
それさえわかれば、肩の力を抜けばいい。
あてずっぽうに、怖がらず、抵抗しない。もがくことなく、受け止める。もがけばもがくほど、蜘蛛の巣に絡まる蝶のよう。(あのときの蜘蛛の巣はもしかしたらこのページの暗示なのかもしれない。)
こっちで大切なのは、自分で自分を認めてあげること。
絶対に否定しちゃ。いけない。
ただ。それだけ。
(ちなみに実際、これを書いている数分前に私のこころは酷く沈んだのだが。)
(あ、内緒にしといてね。)
なんのことかさっぱり?
大丈夫。ニュアンスで十分。
こんな時、
沈んだ自分を認めてあげること以外に私にできることはなにもない。
(まあ、、本当のところはどうであれ、私に失うものなど何もないから、別に良いのだけど。。。うん。)
できることなら早起きして、みんながすやすや眠っているころ、一人静かにパンを焼く。みんなが何度も携帯のアラームを設定しなおしている間に、焼きたてのパンの香りに包まれて、美味しいコーヒーと、静かな時間。この時の気持ちを知ってる人はどのくらいいるんだろう。?一人静かに本を読んで、新しいことを知って嬉しくなる。お菓子を作ってほしいといわれれば、お菓子を作って、喜んでもらえたら、それでいい。それで十分。
やっぱり何度考えたって、
余計なものはやっぱり。いらない。(超熟食パン)
ーああ、もう、全部台無しやぞ。
(いまの一言、間違いなく、いらなかったね、うん、ちょっと廊下で反省してきて?)(うん?)
でも、私が生きるこの世界で、「自分がしたいこと」をするのには、どうやらお金が必要らしい。(めんどくさいなあ)
あーめんどくさい。そう、それが本音。
めんどくさいことが嫌いな私はいつも迷う。(わたしのポケットにはもうすでに20億円くらいはいってるんじゃね、、??わろた。はみでてるやん。)
そんなこと考えている私は、やっぱりどこかおかしいのだと思う。
やっぱり、何度考えたって、私はものすごく身勝手で、自分勝手でわがまま。
こんな気持ちもやっぱり甘え。なのかもしれない。人生舐めんなバカヤローってところかもしれない。
もう、今の私は「書いてる」それが好き。でも、書いてるだけじゃあお金は稼げない。
ああ、矛盾。出てくる答えはやっぱり、めんどくさい。
みんなが右をいくなら、私は左に行きたいし、
昨日の意見と今日の意見は一致しない。
昨日はあんなに好きだったのに今日は嫌い。
人の忠告は聞いちゃいないし、
ああいえば、こういう。
そして適当、「超」がつくほどのめんどくさがり屋。
わたしはそういう人間です。
ブログを書く理由も、
誰かにただ、「自分を理解してほしかっただけ」なのかもしれない。
あーあ。
そんなつもりなかったのに、気がつけば結局自分語り。
でもね聞いて、意外なことに。「左利きの私」にはこれが意外としっくりきてる。
いつも私のブログを読んでくださるあなたへ。
あなたが私にどんなイメージや思い込みを持っているかは分かりません。
書きたいことをブログに書き続けることによって、おびき寄せられたのは、わたしか、それとも、画面越しのあなたか。
そもそも、わたしのブログの中のこんな文字だけの文章。読んでくれていること自体、わたしとあなたは気が合うわけで。
私はやはり自分の嫌なことをすることが嫌いなようです。
お金を稼ぐこと。自体がそもそも向いていないような気さえします。
さんざん考えた末、浮かび上がった答えは一つだけでした。
ーーーーー。
それが、今の私が一人の力でできる唯一の戦い方かもしれません。
以上。
何かに挑戦するとき、
ほんの少しの恐怖の先に見えるものは何か。
ほんの少しの恐怖を超えて、
楽しいことに囲まれた毎日。
囲まれた先に何が残るか。
楽しいことに囲まれて、楽しいことを極めた人生。
極めた先に何が残るか。
「人生楽しすぎ。ワロタ。」
である。
あなたの目の前に広がる二つの扉。
空ける扉は右か左か。それとも、、、?
ー選ぶのはいつだって、「あなた自身」です。
もしも、毎日楽しくない、つまらない。
面白いことが何もない。
そう思いながら、私のこの文章を、画面越しに読んでくれている人がいるならば、
私が見ている世界や、感じたこと、読んだ本や、私の価値観。
そんなことを発信していく先に、気があうあなたと私の間に生まれるにやり。
それをどうか楽しみましょう。
合言葉は、(うーん、そうね、、、)
「もっと身軽に適当に。」
目の前の扉を開くのは「あなた自身」です。
ああ、わたし?申し遅れました。わたくし、管理人のみつまめでございます。
はじめまして、こんにちは。
「みつまめブログにようこそ。」
そんなところかな~?
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